1927年 (昭和2年) 11月 |
第1回アマチュア東西対抗競技開催(6日)。2日には第2回婦人東西対抗競技が行なわれており、男子より1年早かった。
第2回東西婦人対抗の両軍選手 |
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1929年 (昭和4年) 6月 |
日本オープン選手権開催。翌5年10月、7年10月にも開かれた。 |
1930年 (昭和5年) 5月 |
“プロのキング”と呼ばれたアメリカのプロ、ウォルター・ヘーゲンと曲打ちの名手、ジョー・カークウッドが来日 (24・25日) 。コースはファンの熱気で沸いた。 ヘーゲンのアプローチ・ショット |
1931年 (昭和6年) 1月 |
コースの改造設計を委託していたイングランドの名匠、チャールズ・H・アリソン氏が、当倶楽部を訪れ、入念な改修を手がけた。現東コースの戦略性・風格はこの結果生まれた |
1937年 (昭和12年) 10月 |
人気絶頂時のアメリカのプロ、ジーン・サラゼンが来日。26日茨木CCで宮本留吉らとエキジビジョン・マッチを行いファンを魅了した。 |
1941年 (昭和16年) 12月 |
太平洋戦争に突入。 コースは中学生の軍事教練の場になるが、日曜はメンバーのプレーが絶えなかった。 |
1944年 (昭和19年) 4月 |
陸軍の糧秣保管基地として接収さる。 |
1948年 (昭和23年) 11月 |
社交倶楽部「清交社」(北区・堂島)の茨木CCグループが中心になり、 再建を手がけ、アウト9ホールを開場。 |
1951年 (昭和26年) 10月 |
18ホールズ再開。
再開を祝うメンバー |
1952年 (昭和27年) 5月 |
宮本留吉プロは昭和19年(1944)2月に引退。彼の薫陶を受けた、山田弥助プロが関西オープン(廣野G.C.)で優勝。以後、木本三次、寺本金一、宮本省三、杉原輝雄プロらが次々と公式競技を制し、戦後のプロ・ゴルフ界に”茨木一門”の黄金時代を築く。 |
1960年 (昭和35年) 11月 |
コース大型化の時代要請にこたえ、旧コースに隣接して建設中だった新コースが完成。設計は井上誠一氏。 旧コースを「東コース」、新コースを「西コース」と命名。 |
1960年 (昭和35年) 12月 |
茨木・霞ヶ関両倶楽部、姉妹コースとして協定を結ぶ。東コースがアリソン氏による改造、西コースは井上誠一氏の設計という共通点が機縁となった。 |
1961年 (昭和36年) 9月 |
西コース・正式オープン。 |
1963年 (昭和38年) 11月 |
新倶楽部ハウス竣工。倶楽部社員、渡辺節氏の設計による。
現・倶楽部ハウス |
1973年 (昭和48年) 9月 |
第38回日本オープンが西コースで開催される。B・アルダ(比)が、青木功との熱闘のすえ優勝。 |
1975年 (昭和50年) 10月 |
茨木市立幼稚園児に西コースNo.1、No.10を開放。その後もほぼ毎年実施されている。 |
1980年 (昭和55年) 3月 |
東コースNo.17ホール沿いに防球ネットを設置。その後もコース外周道路沿いに増設されている。 |
1981年 (昭和56年) 10月 |
最初の茨木市民ゴルフ大会が開催され、その後も茨木市体育協会主催で概ね毎年開催されている。 |
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倶楽部創設の中心人物、廣岡久右衛門氏は茨木の地を初めて見たときの印象を次のように記している。
「大正十二年二月末に加賀正太郎、進藤嘉三郎両君を当時曽根崎町に在った私の方の修竹館に招待して午餐を共にした後、プロの福井覚治を連れて茨木へ出掛け、(略)候補地現場を踏査したのであります。
当時は現在のように自動車がなかったので、茨木駅から徒歩で女学校前を通って真直ぐに春日神社前に出で、左折して村道の左側の田圃の中に灌漑用の池を見ながら現在の十三番グリーンの所に出で、其処から更に左折して現在の自動車道を歩いて右側に山田を見ながら十八番駒ヶ池の堤防に上り、其処で疲れた足を休めたのでありますが、其時池越しに現在のクラブハウスの方面を眺めた時の夕景が何とも言へぬ景色で一同其の美観に打たれてしまったのであります。
尚それから奥地を踏査する筈でありましたが、何分日没に近かったのと其時皆の受けた印象があまりによかったので、奥地を見るまでもなく立派な候補地といふことに決めてしまって、帰路についたのであります。帰る途中福井が口を極めて此の場所を誉めてゐたことを今尚記憶してゐるのであります。」
―――倶楽部十周年記念誌「創設時代の思出」より
茨木カンツリー倶楽部百年の歴史は、彼らがみたこの夕景から始まったと言っても過言ではない。
――― 百周年を迎える茨木カンツリー倶楽部ですが、他のクラブにはない良いところはどのあたりにあると思われますか?
キャプテン「ご承知のように、当倶楽部は趣の異なる二つのコース、36ホールを有します。東はスコットランドのプロ、ダビッド・フードが設計し1925年に完成しました。その後イングランドの設計家、C・H・アリソンが改修した戦略性に富んだクラシックな雰囲気の漂うコースです。一方、西コースは井上誠一が設計し1961年にオープン、さらに2011年にアメリカのリース・ジョーンズが改修しました。こちらはアスリートからアベレージゴルファーまでそれぞれのプレーヤーの技量に応じた攻略ルートを楽しむことができます。東コースでは過去3回、西コースでは過去2回、日本オープンゴルフ選手権が開催されました。2023年、倶楽部設立百周年の年に、倶楽部としては実に6回目、西コースだけでも3回目の日本オープンが開催されます。このように、チャンピオンを争うにふさわしいコースだと言えると思います。
百年前、設立当時のメンバーが大阪から鉄道で通えるようにこの地を選んだのですが、現在では関西近郊の方だけでなく、新幹線でも飛行機でも、東京や九州からも日帰りでも来ていただける、他にはない立地だと思います。」
――― 倶楽部ライフについてはいかがでしょう?
――― 最後に、倶楽部の百周年については、どのような感想をお持ちでしょうか?
キャプテン「百年前の黎明期はゴルフをするのはほんのひと握りの人たちでした。その後、日本のゴルフも大きな発展を遂げて今に至るわけですから、倶楽部の先人たちには先見の明があったと思います。その伝統を受け継いで、今後もやっていかなければなりません。ただ、最近は少子化の影響もありゴルフ人口が減り、ゴルフのスタイルも変わってきました。よりカジュアルに、ファミリーで楽しめるスポーツになっていくのではとも思います。また、昨今の環境問題から考えても、自然を大事にするとともに地域社会に密着し公益性を高めることにも力を入れなければなりません。それらのことを見極めて、今後はこういう倶楽部になっていくのだという方向性を考えていきたいと思っています。」