関西オープン2026と
東コース
Kansai Open 2026 and East Course
撮影/宮本卓
なぜ東コースで
関西オープンなのか?
1926年11月、日本で初めて、アマチュアとプロが競い合うオープン競技が、前の年に開場したばかりの茨木カンツリー倶楽部東コースで開催された。
それがKGU・関西ゴルフ連盟主催の関西オープンだ。JGAの日本オープンよりも一年早いスタートだった。
それから100年が経ち、茨木の東コースに関西オープンが還ってくる。東コースでは実に55年ぶり9回目の開催となる。この記念すべき大会を機に、100年の時を刻む東コースの魅力を改めて見てみよう。
第91回 関西オープンゴルフ選手権競技
2026.5.14(木)~17(日)
東コースとは
日本の原風景が心地よい、
英国式の18ホール。
古き良き里山の雰囲気に包まれた、
美しく品格あるコース。
その一方で、松の木一本の配置にまで、
戦略性を際立たせる工夫が凝らされている。
フード、アリソン、
井上誠一と東コース
茨木・東コースは1925年、スコットランド出身のプロ、ダビッド・フードの設計で開場した。その後も倶楽部の創始メンバー・加賀正太郎らが延伸の改造を進めたが、1931年、イングランド出身のC.H.アリソンが訪れ、コース改造の提案をした。アリソンは共同経営者のH.コルトとともに、設計に測量図を用いてルート・プランを描いたパイオニアで、今も評価が高い。彼は茨木でも、グリーン面の高低やバンカーの位置、形状を手書きのスケッチとメモで書き残した。このアリソンの改造によるフォルムは東コースのあちこちに残されている。
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アリソンの改造後、
地蔵ヶ池に築島ティーが出現 -

東11番、12番
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アリソンの改造後、
地蔵ヶ池に築島ティーが出現

東11番、12番
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このスケッチ通りに改造が施され、
今もほとんど変わっていない -

東17番の左右2段グリーン
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PAR3の花道、グリーンと離れた
大きく深いバンカーがアリソンのアイデア -

東6番手前の深いバンカー
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このスケッチ通りに
改造が施され、
今もほとんど
変わっていない -

東17番の左右2段グリーン
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PAR3の花道、
グリーンと離れた
大きく深いバンカーが
アリソンのアイデア -

東6番手前の深いバンカー
そして戦後、東コースの改造を担当したのが井上誠一である。井上は川奈ホテルでアリソンと出会ったことから設計家を志し、霞ヶ関CC東コースがアリソンの提案によって改造を行った際は現場助手として参加した。いわばアリソンの弟子と言ってもよい。
このように、アリソンと井上誠一の師弟がともに手がけた稀有な例、それが茨木の東コースである。この地はもともとため池と棚田、雑木林の里山であったが、フード、アリソン、井上はこの景観にあまり手を加えず、むしろ調和させた。そして今、東コースは100年前の里山の佇まいを保つクラシックなコースとして、訪れる者を楽しませてくれる。
世界から見た
茨木CC東コース
宮本卓/photographer
世界的な名コースのほとんどが1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)の間に出来上がっている。アメリカではフィラデルフィア出身の4人の仲間、G.クランプがパインバレー、H.ウィルソンがメリオン、A.W.ティリングハストがウィングドフット、G.トーマスJr がリビエラと、素晴らしいコースをこの10年間に完成させた。
このうち、パインバレーのルートプランは当初からH.コルトが考えたという。パインバレーは1919年に完成したが2年後の21年コルトの弟子のC.H.アリソンの手によって改造された。アリソンの評価はなかなか表には出てこないが設計者仲間では高く評価されていた。
アリソンは1930年、東京ゴルフ倶楽部の招聘で来日したものの、当時は誰も彼の功績を知らなかった。ところが、ここに来てパインバレーの研究が進むにつれてアリソンの評価が高まっている。その中で、現存するオリジナルは廣野GCなど世界的に数が少ない。
茨木CCの東コースは1925年(大正14年)ダビッド・フードの設計で開場し、アリソンが来日の折り、改造の提案をした。東コースを撮影していると、そのアリソンの思いがここかしこに話しかけてくる。茨木CCは100年という大きな節目を迎え、先人たちの叡智が詰め込まれた作品は時代を経て道具が発達しスケール感がたとえ変わったとしても、その持つスピリッツは決して失せることはないだろう。次の100年に向けなにを守り、なにを進化させるか。それは大きな「茨木愛」を持って取り組むべきだと考えます。

- 宮本卓/photographer
- 1980年代からマスターズトーナメントをはじめ、海外のメジャー大会などの取材を行う。世界の名ゴルフコースの撮影にも力を入れ、ペブルビーチやリビエラなどのオフィシャルフォトグラファーを務める。2021年から3年間にわたって、茨木カンツリー倶楽部の撮影に取り組み、倶楽部創立100周年記念写真集を上梓した。
東コースは
里山の景観を
巧みに利用した
ワンアンドオンリーな存在
東コースは1925年、スコットランド出身のダビッド・フードの設計によって開場した。この土地はどんな景観だったのか、「茨木ゴルフ土地組合経営地実測平面図」に開場当時のルーティングを重ねると、その姿が浮かび上がってくる。全体にはなだらかな丘陵地、ところどころ松林の記号が見える。図面の左上と左下から右下への二つの水の流れに沿う形で、何百枚もの水田が階段状に広がっている。そして、水の流れを堤でせき止めて鶴ヶ池と駒ヶ池の二つの大きなため池が設けられている。松林と雑木林、棚田、ため池、いかにも日本的な里山の風景である。フードはその水田のエリアを利用して、18ホールを配置した。

(注.各ホールNo.は開場当時のものであり、現在とは異なっています)
今、開場当時の姿を想像しやすいのはどこだろうか?例えば、現・1番ミドルホール(開場当時は2番)。フェアウェイ第2打地点から前方を見ると、右側に鶴ヶ池があり、そこに接する形でグリーンがある。それは当時のままだ。第2打地点から、グリーンに向かっては段々状に降りていく。ここが当時の棚田の面影をよく残している。ホールアウトして後ろを振り返ると、そのシェイプがよくわかる。

また、現・5番ロングホール(当時は4番ミドル)は第2打地点の先からグリーンを眺め、棚田のシェイプを色濃く残すフェアウェイを打ち下ろしていく。第 3 打地点からは右に鶴ヶ池が広がり、そこに半島状にせり出したグリーンにアプローチする。このロングホールの美しい景観は現在も変わっていない。

スコットランドで育ち、ニュージーランドでプロになったフードにしてみれば、ゴルフ場の景観とは、海沿いのリンクスや、内陸の牧草地やヒースランドであったことだろう。アジアの水田をベースにコース造りをするのは知見も乏しく、相当の苦心があったと想像される。
一方、日本のゴルフの歴史から見ても、茨木より先に開場したコースは山の上や高原、海岸沿い、雑木林、あるいは競馬場の中にある。水田をこれほど活用したコースは他になかったと言える。
フードの後、コースを改修した加賀正太郎、C.H.アリソン、井上誠一はフードの苦心と工夫を理解した。そして、自然の景観を重視してできるだけ作為の跡が残らないようにと務めた。そんな先人たちのおかげで、東コースでは開場から100年を経た今も、当時の松林と雑木林、棚田、ため池の面影を辿ることができる。日本の里山の景観を生かした、ワンアンドオンリーなコースと言えるのではないだろうか。

風格と趣。
100年の歴史を紡いだ証。
時は大正の終わりの頃、日本のゴルフ黎明期。ゴルフ先駆者たちのロマンとパイオニア精神が結実して生まれた、関西で初めてのチャンピオンコース。昭和天皇にゴルフを教えたスコットランド人、ダビッド・フードの設計したコースは、プロ選手権、オープン選手権、インタークラブ競技など、現在も行われる主要ゴルフ競技が発祥した地でもある。ここには日本のゴルフの歴史が凝縮されている。
雑木林に囲まれ、はるか東に生駒山を、北には北摂の峰々を借景とした丘陵にコースは位置し、コースのルーティングは自然の地形のまま。グリーンやバンカーは風景に溶け込み、人工的な工作さえも100年近い年月で自然と一体化している。改造を施したチャールズ・アリソンは、3つの大池がある景観の美しさを重視。また各ホールには、樹木の立体感とともに、異なった遠景、中景、前景を配して、里山と松林の修景美を表現した。まさに「北摂の名園」といえよう。
意外なことに、東コースのスロープレーティングは西コースより高く、個人の技量差があらわれる。それは現在のように、ショット・ヴァリューの考えが確立していない時代、ショットの飛距離、正確性、戦略、微妙なコントロールのバランスこそがゴルフの本質とすでに見抜いていたフードとアリソンが、意識的にコースデザインを行っていたからにほかならない。2000年代に入り、グリーンをベントのワングリーンに改造後、プレーヤーにはますますホールごとにそのバランス性が要求されている。
東コースの穏やかな起伏と景観は回遊式庭園にも通じ、メンバーにとっては倶楽部の誇りであり、気持ちが和らぐ場所である。そして、いつまでも変わらないでほしいと願う、密かな楽しみの場でもある。
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- 倶楽部の創設者たちが選んだのは現在のJR茨木駅北西に広がっていた丘陵地。当時の地形図を見ると、南向きの斜面に灌漑用の池、樹林、田、荒れ地が混在している。適度な傾斜、池の存在、都心から近いことなど、ゴルフ場建設の好適地であった。
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- 倶楽部はスコットランド出身のプロ、ダビッド・フード氏にコース設計を委嘱。1925年には、18ホールが完成。現存する18ホールのコースの中では、日本で二番目に完成した。このときのルーティングが原則的に維持されていることも東コースの価値を高めている。
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- 「もっとよいコースにしたい」というメンバーたちの熱意は開場後も醒めることはない。コースを改造し、距離を伸ばしてパー72とした。1929、30年と日本オープンがこのコースで開催され、宮本留吉プロが連勝した。
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- 大きな転換点となったのが、イングランド出身の設計家C.H.アリソン氏による改造である。1931年、アリソン氏は倶楽部の依頼に応えて、10ほどのポイントについて改造を提案、グリーンについても詳細な図面を残した。このときの改造によって、東コースのベースが固まった。
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- 時を経て、西コース18ホールが井上誠一氏の設計で新設された。このとき、東コースの改造も井上氏に委ねられた。井上氏は30年前、来日中のアリソン氏と出会ったことから、コース設計家の道を歩むことになったという縁を持つ。東コースの改造にあたっても、アリソン氏への想いが胸をよぎったことであろう。
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- このように、フード氏によるルーティング、アリソン氏、井上誠一氏という日本のゴルフ史に欠かせない二人の手による改造、そして100年という熟成のときを経て東コースは現在の佇まいを見せている。
- 1923年(大正12年)
- 1925年(大正14年)
- 1929年(昭和4年)
- 1931年(昭和6年)
- 1961年(昭和36年)
- 現在








